片山正夫著 295125

分子熱力学総論

河出書房, 1947年(初版)

心にのこる1冊

東北大学大学院理学研究科     大野 公一

(岩波「科学」vol.75 No.12 Dec. 2005 レイアウトなど一部修正)

(「科学者の本棚:24 六角模様との不思議な縁」 2012年 岩波書店)

 

 

 

 


学問との出会いと六角模様

 学問との出会いがいつであったか、今となってはまったく定かではないが、学術書との出会いということであれば、私の記憶に残っている最初の本は、表紙に亀の甲のような六角模様(亀甲模様)を縦長に配した本であった。父の書棚に見つけたのであるが、まだ小学校にも上がっていなかった頃のことなので、表紙の図柄以外には、ほとんど何の記憶もない。後に化学の授業でベンゼンや石墨を学んだときにも、六角模様の不思議な魅力と炭素原子が作り出す整然とした化学結合の世界とが違和感なく結びついたような気がしたが、とくに大きな感動を覚えたわけでもなかった。ところが、この本とその表紙の図柄は、私の学究生活に不思議な縁を投げかけることになるのである。

 

 1968年に大学院に入学して指導教官の井口洋夫先生(当時、東大物性研究所助教授)から頂戴したテーマは、多環芳香族炭化水素の1つであるコロネンという物質の光物性がその純度でどのように変化するかを明かにせよというものであった。早速、辞典で調べてみると、コロネン(coronene)C24H12の化学式で表され、ベンゼンの周囲に更にベンゼン環が6個王冠状に配置された非常に美しい形の芳香族炭化水素であった(図1)。

 

研究室の先輩から、「大野君、可哀そうに、難しいテーマが当たったね。コロネンにはペリレンやベンゾペリレン(図1)などの不純物が含まれていて、その精製にX先輩が相当に手を尽くし莫大な時間をかけたけれど、結局うまく行かなかったのだから。」という同情と忠告(警告?)をしていただいた。それにもめげず、このテーマに没頭できたのは、幼児期に刷り込まれた六角模様の不思議な魅力(魔力?)のおかげだったのかも知れない。

< 図1 多環芳香族炭化水素 >

 

 コロネンの精製を始めてから、約1ヶ月半の後に、キラキラと輝く淡黄色の針状結晶が得られた。早速測定してみると、その光物性は、それまでの試料とは、まったく違うことが判明し、立て続けに3報の原著論文となった。その後コロネンなどの多環芳香族炭化水素に関する論文8報がまとまり、私の学位論文となった。

 

学位を得て2年後、ラムゼーフェローとして英国へ2年間留学することになったが、そのときにも、亀の甲との縁から、多環芳香族炭化水素の電子構造の研究で著名であったG. J. Hoytink先生の門を叩くことになった。そこで、六角格子模様の芳香族炭化水素の分子振動を、簡便かつ高精度で計算することができるMO/8法というものを考案し、ナフタレン、アントラセンをはじめ、コロネンなどの電子状態が振動状態と強く相関する現象の解明に役立てることができた(MO/8法は、NASA等の海外の研究者に最近も利用されている)。こうして私と六角模様との縁は不動のものとなっていった。

 

六角模様の本との再会

 私が再び六角模様の本と出会ったのは、198810月に、父の葬儀を終え、父が直前まで使っていた札幌医科大学の名誉教授室に後片付けに赴いたときのことであった。背や耳がかなり傷んだ本を手にとって表紙を見た瞬間に一条の電光が走ったかに思えた。ナノチューブをも思わせる整然とした縦長の六角模様がそこにあった。

 

本の題名は、「分子熱力学総論」、著者は、「片山正夫」と書いてあった。200頁ほどの薄手のその本を、ぱらぱらとめくってみると、熱力学の本でありながら、量子力学の基礎もしっかり解説されており、古典的な熱力学からはじめて、統計熱力学をも概観できる、本格的な内容であった。文体が現代とはいささか異なるので、私が当時教えていた東大駒場の学生には推薦できそうになかったが、内容的には現代でも十分に通用する高度なものであった。ここかしこに父が引いたと思われるアンダーラインがあり、簡潔にして含蓄のある片山正夫先生のテキストに、しばし吸い込まれてしまった。片付けに来ていたことをふと思い出し、我にかえって、机上周辺に置いてあった本の中から、「分子熱力学総論」と何冊かを携え、他は大学へ寄贈することにして、その場を後にした。

 

片山正夫先生との縁

 六角模様の本との縁は、その後も引き続いて起こった。18歳のときから、学部生・院生・助手・助教授・教授と30年に渡り在籍した東京大学に別れを告げ、1994年に現在の職場である東北大学に赴任した。そして私が担当することになった理論化学講座は、その昔、1911年に東北帝国大学の開設とともに誕生した化学科3講座の一つであり、その初代教授が片山正夫先生だったのである。

 

 片山先生は、眞島利行教授、小川正孝教授とともに、東北大学の化学教室の創設に携わり1919年まで仙台で教鞭をとるかたわら、わが国初の物理化学の本格的テキストとして「化学本論」を著わした。この本は、法華経とともに宮沢賢治の座右に置かれ愛読書として親しまれたという。

 

 その後、片山正夫先生は東京帝国大学に移り、物理化学を中心に我国の化学の発展に尽力された。お茶の水にほど近い日本化学会の一室に、片山先生の肖像画が掲げられている。

 

東京大学の片山研究室からは、多数の物理化学者が輩出し、その多くがテキストを著わしている。私が大学1年のときに夢中になって読み、現在専門にしている物理化学方面に進もうと思うようになった本は、片山門下の水島三一郎著 「分子」(岩波全書)であった。この他にも為になった本は多数ある。本には人生を左右する不思議な力が秘められているようである。

< 図2 片山正夫先生の肖像画、日本化学会所蔵 >