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Koichi OHNO の
 未 知 の 化 学 へ の チ ャ レ ン ジ 

 

 

 



「不可能」を可能にする新アルゴリズムの誕生


                               大野 公一    

  < 化学の世界の宝探し >                           

 古来、「滄海の一粟」とは広大な青海原に浮かぶ一粒の粟(あわ)のことで、確かに存在し
 てはいるものの、ほとんど認知不可能なもののことをいいます。これは、果てしない砂漠
 の中に紛れ込んだ貴重な一粒の探し物を発見すことの難しさにも通じています。    
                                      
 いろいろな原子が集まってできる化合物や種々の化合物どうしが、どのように反応して別
 の化合物が生まれるかを、理論化学で完全に解き明かす問題は、ポテンシャル表面という
 非常に広大な空間に、埋もれて存在する「化合物とその異性体」、それらを結ぶ「反応経
 路と遷移状態」を、ことごとく探し出すことであり、これは、事実上無限大の空間の中か
 ら、珠玉の宝石をあらいざらいみつけ出そうとする、貪欲な宝探しのようなものです。 
 

  < 化学の世界は、無間地獄か? それとも、限りなく広がるパラダイスか? >   

 化学の世界を構成する多次元のポテンシャル空間が、如何に広大なものであるか、考えて
 みることにしましょう。例として、生命をつかさどるアミノ酸の中で一番小さい分子であ
 る、グリシンをとりあげることにします。グリシンの化学式はC2O2NH5で、合計10個の原子
 からなっています。この10個の原子が空間にうまく配列してグリシン分子ができているの
 ですが、これをポテンシャル空間の中から何の予備知識もなく探し出すとなると、膨大な
 探索をしなければなりません。なぜならば、ポテンシャル空間は、理論的に原子の個数の
 3倍から6を引いた数の次元をもつ非常に高次元の世界だからで、10原子の場合は3×
 10-6=24、なんと24次元もの高次元空間なのです。この空間をシラミツブシの方
 法で、1次元当たり、わずか10点しか調べないとしても、24次元では、10の24乗
 にもなり、これは化学の世界でよく出てくるアボガドロ数(6かける10の23乗)にほ
 ぼ匹敵します。                                 

 10の24乗という数は、1億の1億倍のさらに1億倍ですが、どんなに大きいか、なか
 なか想像がつきません。                             
 1辺1mmの立方体の砂粒を考えてみましょう。これを地球と同じ半径の球面上に敷き詰
 めるとどうなるでしょうか。この砂粒10の24乗個を並べると、地球規模の球面を1回
 覆い隠すだけでは、まだ大半が残っており、全部並べようとすると、百万回も積み上げる
 ことになり、その厚さは、およそ1kmにもなってしまいます。           
 なんと1mm角の砂粒10の24乗個は地表を1000mの厚みで覆ってしまうのです。

 つまり、最小のアミノ酸分子であるグリシンについて、異性体や反応の遷移状態を、特別
 な知恵を使わずに、シラミツブシのやり方で探すことは、広大な砂漠の中に埋もれた一粒
 や、大洋に浮かぶ一粒の粟を探し出すよりも、もっと果てしなく巨大な空間の中で探し物
 をするような、およそ不可能なことなのです。                   

 探索に要する時間についても考えてみましょう。10の24乗の1つ1つ、目的の探し物
 に該当するかどうか全部調べるとすると、ポテンシャル表面の1点当たりの理論計算が仮
 にたった1秒しかかからずにできたとしても、全部試すには10の24乗秒かかることに
 なります。1日は、60×60×24=86400秒ですから、日数を計算すると、10
 の24乗÷86400=1.16×10の19乗日となり、1年=365日で割ると、3×
 10の16乗年、つまり3億年の1億倍もかかってしまうのです。宇宙の年齢には諸説が
 ありますが、長いもので200億年程度です。ということは、10の24乗回もの計算と
 いうのは、宇宙が誕生したときから始めていたとしても、まだ、全体の100万分の1ほ
 どしか出来ていないことになり、このまま続けても、計算が終わるまで、コンピュータは
 長持ちしないだろうし、人類が生存し続けられるかどうかさえわかりません。     

 今見てきたように、化学の世界は、非常に奥深く果てしない世界であり、そこをさ迷い始
 めると、高性能のコンピュータをもってしても、到底目的地にたどり着くことの難しい 
 「無限空間」であり、とめどない努力を強いられる「無間地獄」なのかもしれません。 

 しかし、化学の世界は、本当に地獄のような無限空間なのでしょうか。目的の物がありそ
 うもないところを生真面目に1つ1つ探してさ迷えば地獄にもなりますが、うまく化学的
 に意味のあるものの在りかを嗅ぎ分けて、見つけられるようになれば、化学の世界は、未
 知の物にあふれた魅力満載の楽園(パラダイス)となるに違いありません。      

 化学的に意味のあるものが何処にあるのか、その方向を、無駄にさ迷わずに、見つけ出す
 ことは可能でしょうか?                             
 砂漠の中の1粒や、大海に浮かぶ粟からは、遠くまでその存在を伝える情報は届きません
 が、もしも、それらが強力な磁力を発していたり、強力な電波を出していれば、磁力や電
 波を探り当てることのできる探知機によって、難なくその在りかを見出すことができるは
 ずです。                                    
 化学の世界のポテンシャル空間には、化合物や遷移状態の存在を教えてくれる「磁力」や
 「電波」、特別な「香り」や「フェロモン」のようなものは存在しないのでしょうか? 


  < これまでの「化学の宝探し」では、何が可能で、何が不可能だったのか? >   

 ここで、これまでポテンシャル表面の探索法が、どのように行われ、何が可能で、何が不
 可能であったかについて、詳しく見ておきましょう。                

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 ポテンシャル表面の特徴を調べてみると、化合物に相当する場所は、地表の盆地のように
 窪んでいて、ミニマム(極小点)になっています。したがって、任意の場所から、より低
 い方向へと降りて行けば、必ずどれか1つのミニマムにたどり着くことができ、その化合
 物の構造(平衡構造)がわかります。実際、計算化学の世界では、この特徴を用いて、化
 合物の平衡構造を探り出すことが、頻繁に行われており、それを「構造最適化」と呼んで
 います。つまり、ポテンシャル空間に存在する「化合物の存在とその構造」は、適当な場
 所から出発して「構造最適化」という技法を用いれば、コンピュータで自動的に求めるこ
 とができます。                                 
 ただし、その結果は、どの場所から出発したかに依存します。別の場所から出発したら、
 違う化合物に到達する可能性もありますが、同じ場所にたどりつく可能性も排除できませ
 ん。このため、同じ化学式であらわされる別の化合物(異性体という)を見つけるには、
 いろいろな場所から構造最適化を何度も行わなければならず、試行錯誤が要求され、何度
 試しても、探索しつくしたかどうかの確認は得られません。             
 つまり、構造最適化というのは、高低の起伏がある多次元のポテンシャル空間を、下の方
 に向かって化合物を探索する有力な方法ですが、異性体をことごとく見つけ出すには、試
 行錯誤が避けられず、残念ながら無限空間における迷走を回避することはできません。 

 化学反応の道筋(化学反応経路)の途中にある峠のような場所を「遷移状態」(または、
 活性化状態)といいますが、その探索は盆地のようになっている「化合物」の探索より、
 はるかに困難です。遷移状態は、馬の鞍のような所で、反応経路に沿うと最高点(マキシ
 マム)になっていますが、他の方向に対してはミニマムになっています。馬の鞍に似てい
 るので鞍点とよばれます。盆地の底に降りて行くには、ひたすら下の方に行けばよいので
 すが、鞍点にたどり着くのは容易ではありません。化合物の構造(平衡構造)から、どの
 方向に進めば鞍点になるのか、それを指し示すシグナル(「磁力」や「電波」)が、あれ
 ばよいのですが、これまでまったく知られていなかったのです。           
 
 これまで、反応の遷移状態を探すときには、直感や試行錯誤によって、およその見通しを
 つけて、ポテンシャルの鞍点の近くを推定し、鞍点では反応経路に沿う方向で上に凸にな
 っていることを判定条件にして、鞍点を探す技法がいろいろ考案されてきました。それら
 の方法で、遷移状態を理論的に決めることができる場合もありますが、それは直感か偶然
 で鞍点付近に行けたときに限られるので、いわば「解の近似値を知っているか、あてずっ
 ぽうがうまく当たれば、真の解にたどりつける」というようなもので、「運」がよくなけ
 れば、一般に非常に多くの試行錯誤を伴うため、残念ながら無限空間の迷走を回避するこ
 とはできませんでした。                             

 このほかに、反応物と生成物の知識を利用して、その間の遷移状態を、有限の手数で見つ
 け出す技法が提案されており、うまく遷移状態を見つけられこともありますが、着目した
 反応物と生成物の間にいろいろな中間体がある場合には、うまく行かないことが多く、ポ
 テンシャル空間における反応物と生成物の位置関係に依存して、うまく機能しないという
 問題もありました。そもそも、この場合は、反応物とそれから生じる生成物の正しい対応
 関係が既知であることを前提にしているので、未知の化合物の発見や未知の反応ルートの
 開拓の一般手法とはなりえないものです。                     

 既存のポテンシャル表面探索法で何が可能であったかといいますと、下の方へと反応経路
 を下ることです。したがって、もしも遷移状態が運良く見つかれば、そこから、峠の「こ
 ちら」と「あちら」の両方向に下りて行けば、その遷移状態Tにつながる反応物Aと生成
 物Bにたどり着くことができ、A-T-Bの3者の間の反応経路を完全に解明できます。
 できないのは何かというと、化合物の構造(平衡構造:盆地の底)から、遷移状態の方向
 へと反応経路に沿って登坂することです。つまり化合物から反応経路に沿って遷移状態ま
 で登って行くアルゴリズムが存在していなかったのです。              


  < 新アルゴリズムの誕生 >                          
 
 実はポテンシャル表面とよばるものを、よく観察してみると、化学的に重要な構造の所在
 を指し示す「磁力」や「電波」に相当するものが、存在しいることがわかりました。  
 
 そのヒントは、高校や大学の教科書にもあるポテンシャル曲線に隠されていました。  
 
 高校の化学の教科書には、反応物から生成物へと活性化状態を越えて行く反応経路に沿っ
 てエネルギー(ポテンシャルエネルギー)がどのように変わるかが示されています。どの
 教科書でも、最初は緩やかにエネルギーが上がって行き、下に凸の形から上に凸の形に変
 わり最高点(マキシマム)が活性化状態になっています。この活性化状態は、上にでてき
 た遷移状態のことです。                             
 下に凸の形を調べてみると2次方程式のような2次式、つまり放物線の形になっているの
 です。これは、化学結合のポテンシャルが放物線の形をしていて、平衡点からずれると、
 フックの法則にしたがって復元力が働くこと、つまり化学結合力が、あたかもバネのよう
 になっていることと関係しており、大学1年程度のどの教科書にも出ています。このよう
 な化学結合のバネが伸び縮みすることは分子振動といいます。また、放物線に厳密に従う
 振動、すなわちフックの法則に従う振動は、高校の物理ではバネ振り子として、また大学
 1年程度の物理学では調和振動子として、学習します。               
 高校の化学の教科書にも出ている反応のポテンシャル曲線の特徴をよく見ると、最初は下
 に凸の放物線に沿ってエネルギーが上がって行きますが、そのまま放物線の形を続けるの
 ではなく、次第に放物線の形から下の方向にずれて行きます。つまりこれは、2次関数の
 形から3次以上の項(非調和項)が加わってきて、「非調和下方歪み」が発生しているこ
 とを物語っています。                              

 ポテンシャルが放物線の形から下のほうにずれること、すなわち、非調和下方歪みが、化
 学反応が起こる方向を指し示し、いわば化学反応の行き先を示す「羅針盤」となっている
 ことが見つかりました。これが、化学反応経路の自動探索を初めて可能にする新アルゴリ
 ズムであり、わたしたちが見つけた「化学反応の量子原理」です。          
 この原理に基づいて、ポテンシャルの非調和下方歪みの大きい方向を、1つの化合物の構
 造から出発して見つけることができれば、これまで存在しなかった、反応経路登坂アルゴ
 リスムになります。                               
 これを実現したのが、わたしたちが開発した「超球面探索法」です。つまり、ポテンシャ
 ルが完全に放物線の形になる仮想的な場合の等エネルギー面を簡単な座標変換でまん丸な
 超球面に変換し、その表面上での実際のエネルギーの値が、どの方向で極小になるかを、
 この超球面に限定された範囲で探索すれば、1つの平衡構造(化合物)の周囲に出ている
 反応経路を1つ残らず全部見つけ出すことができるのです。             
 そして、超球面の大きさを広げて行けば、個々の反応経路にある遷移状態(活性化状態)
 も次々に見つかります。                             
 遷移状態が見つかれば、そこから先は単純に下へと降りて行くだけで、他の平衡構造(化
 合物)へとつながります。新しい平衡構造(化合物)がみつかったら、そこから、そのま
 わりの反応経路を超球面探索法で探してやることで、(平衡構造)→(遷移状態)→(平
 衡構造)→(遷移状態)→(平衡構造)→・・・というように、芋づる式に遷移状態や平
 衡構造が、みつかります。                            
 こうして、それぞれの化学式で表される化合物(異性体)とそれらを結ぶ反応経路および
 遷移状態を、ことごとく探し出すことが初めて可能になりました。          

 上の説明では、省略しましたが、結合が組み変わる反応だけでなく、結合が切れて複数の
 化合物(原子のこともある)に分かれる反応経路も自動的に見つかります。      
 このような分解反応経路がわかると、その逆にもとの化合物を過不足なく合成する反応経
 路がわかります。これは、省資源・省エネで目標とされる資源を効率的に使う合成法(最
 小限の原料で目的物をつくる方法)であり、また、余計なものや無駄ものを副産物として
 一切出さないため、省資源のみならず環境保全にも役立ちます。           

 「ポテンシャルの非調和下方歪みが反応の進行方向を示す羅針盤」である、という「化学
 反応の量子原理」の発見と、その原理に基づいて実際に反応経路を見つけ出す「超球面探
 索法」の開発によって、化学反応経路を芋づる式にことごとく自動探索し、「化学反応経
 路世界地図」を描き出すことが初めて可能になったのです。             

 「ポテンシャルの非調和下方歪み」に着目することで、反応に関係のない空間をさ迷うこ
 となく効率的に反応経路をたどることができるようになり、無駄のないアルゴリスムで無
 間地獄を回避して、化学の世界を楽しいものに変えることができました。       
 こうして「無間地獄」とさえ思われた「化学の世界の宝探し」が「化学反応の量子原理」
 の発見と「超球面探索法」の開発(化学の世界の羅針盤の発明)によって、コンピュータ
 で自動化できるようになり、これまでまったく未知であった「化学の新世界」につながる
 扉が大きく開かれて、豊穣なパラダイスが私たちの眼前に広がってきました。     
 
 さあ皆さん、「化学の世界の羅針盤」を使って、あなたも、化学の新世界の宝探しや探検
 にでかけてみませんか。                             




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