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  バルマーの謎  

       「サイエンスパズルへの挑戦」  大野 公一 

 水素放電管から放射される光のスペクトルには、可視光の領域に4本の輝線が見られる。19世紀半ば
には、ブンゼンとキルヒホフによってはじめられた分光分析学が発展し、1860年ごろには、オングスト
ロームなど多くの分光学者達によって、水素の輝線スペクトルの波長が、4~5桁の精密さで明らかに
され、さらに、ディシャイナーは、以下の測定値を得た。(下記注参照)

   λ1 = 655.95  nm
   λ2 = 485.974 nm
   λ3 = 433.860 nm
   λ4 = 410.00  nm

 これらの波長の不思議な規則性には多くの科学者が魅了され、その虜となった。電子の名付け親でも
あるアイルランドのStoneyは、1871年に次の関係があることを指摘した。

   λ1×20=λ2×27=λ4×32=λ0(定数)

確かに上の3つの輝線の波長を用いて計算してみると、値がほぼ等しくなり、平均すると、

   λ0=(13119+13121.298+13120)÷3=13120.1 nm

 となる。
 しばらく後の1885年に、スイスのバーゼルで教師をしていたBalmerは、水素が出す4本のスペクトル
線の波長が次の公式に従うことを発見し、著名な学術雑誌(Ann.Phys.Chem.25,80(1885))に報告した。

   λn=A(n+2)2/{(n+2)2 - 4}  (n=1,2,3,4) A=364.46 nm

この公式は、上の4つのスペクトル線を驚くほどの精度で再現する。そればかりか、スペクトル線の順番
に関係する整数nの値が 5, 6, 7 などに対応する波長のところにも、実際に輝線が存在することが、紫
外線の領域まで実験を進めることによって確認された。さらに詳しく調べると、スペクトル線は次第に幅
を狭めながら、nの値が無限大になるところまで続いていることがわかった。このスペクトル線系列が、
Balmer系列であり、n=∞に相当する波長はBalmer系列の限界波長であって、これがBalmerの公式の定数
A にほかならない。これ以外にも水素原子のスペクトルが詳しく調べられ、一般公式として、Rydbergの
公式が発見され、さらにはBohrの原子模型へとつながって行き、水素原子のスペクトルの研究は量子力学
の誕生に大きな役割を果たした。

 ところで、いったいBalmerはどのようにして上の公式を発見したのだろうか。とくに限界波長を表す定
数A をどうやって決めたかは、論文にまったく記されていないため、現在でもその真相は謎に包まれたま
まである。これが「バルマーの謎」である。
 
 Balmerの公式を求める試みは、いろいろなされており、その多くは、Stoneyの指摘と、Balmerが求めた
限界波長の定数A = 364.46 nmに基づいている。このAの値を仮定すると、

   λ1/A = 655.95/364.46  = 1.79979 ≒ 9/5
   λ2/A = 485.974/364.46 = 1.33341 ≒ 4/3 = 16/12
   λ3/A = 433.860/364.46 = 1.19042 ≒ 25/21
   λ4/A = 410.00/364.46  = 1.12495 ≒ 9/8 = 36/32

したがって、

 λ/A = 9/5, 16/12, 25/21, 36/32

となる。ここで、分子が平方数で分子と分母の差がどれも4であることがわかれば、上のBalmerの公式に
たどり着く(と説明している本がある)。
  「原子価と分子構造(第4版)」久保昌二訳(丸善1980年2月)訳者補遺「Balmerの思考経路」
  「量子化学 基本の考え方16章」中田宗隆著(東京化学同人1995年9月)p26「バルマーの数字遊び」

 この種の説明で納得しがたいのは、どうやって整数比を得るのか。1.19042から 25/21 を出すことは、
簡単ではなさそうである。また、対応する分数として、いろいろな分数がありうる中から、どうやって、
4/3の代わりに16/12を、9/8の代わりに36/32を出してくるのか、かなり奇想天外であり、天才の考えには
ついて行けない思いにさいなまれてしまう。多くの書物では、ここを「試行錯誤の末に」というフレーズ
で片付けているが、とても承服できそうにない。
 そこで、Balmerは「数」を扱う天才であったとして、この疑問をうやむやにしたとしても、もう一つ納
得できないことがある。そもそも上のAの値は、どうやって出てきたのだろうか。これが分からなければ、
平方数も「へちま」もない。
 A=364.46 nmは、Balmer系列が収束する限界波長であり、19世紀の後半から今世紀にかけて向上した分
光測定の結果を用いれば、実験的に決めることも不可能ではないが、いかんせん、Balmerが用いたのは、
四本の輝線の波長だけなのである。グラフを書いて求めるなどの試みもあるが、λをスペクトル線の順番
に対してプロットしても、このような5桁もの数値をひねり出すことは至難の業であり、グラフの曲線の
漸近線を、なんとかして求めようとしても、個人差が出てしまうし、同じ人がやっても、そのときによっ
て結果が食い違い、科学的な再現性は期待できない。



<バルマーの謎への Koichi OHNO の挑戦(1)>

[限界波長の定数Aの値を、どうやって求めるか]

 まず、限界波長の定数Aの値を決める課題に挑戦してみよう。

 このために、Balmerも知ることができたはずの、Stoneyの関係式に注目しよう。Stoneyの関係式の数列
(20、27、32)を調べてみると、これらの整数は次第に増加している。そこで階差(隣り合う2項
の差)をとってみると、(27-20=7、32-27=5)となる。このことから、7と5の次に来る
奇数である「3」をもってきて、Stoneyの関係式を拡張し、32+3=35を導入し、続いて、その次に
小さい奇数の「1」をもってきて、35+1=36を導入する。これより小さい奇数はないので、ここで
おしまいになるが、上のStoneyの関係式から「36」に対応する最後の波長として A の値を求めると、

  A =(13120.1 nm)/36= 364.45 nm

となり、Balmerの公式の定数Aと、ほぼぴったり一致する値が得られる。これで、定数Aを求める謎が解け
たことになる。

 史実は不明であるが、BalmerがStoneyの関係式をよりどころにした可能性は大いにあり得るし、上のよ
うにして定数Aの値を求めていたとしても不思議ではない。ならば、どうしてそのことを発表しなかったの
だろうか。それは、Stoneyの関係式自身に大きな疑問があるからである。Stoneyの関係式をよく見ると、
λ3 = 434.05 nm が、まったく使われていない。つまり、この関係式自身が、不完全なのである。λ3に対
しては、(13120.1 nm)/(434.05 nm) = 30.23 となり、整数値から明らかにずれてしまう。波長の精度は、
少なくとも4桁はあるので、このずれは無視できない。仮にこれを無視して、整数値の30を採用すると、
Stoneyの数列は、(20、27、30、32)となってしまうので、この数列の規則性は失われる。ここ
で、20は22の間違いでないかと疑問もわくが、λ1 = 656.28 nm の実験値は揺るがないので打ち砕か
れてしまう。この問題を有耶無耶にして、32の次に33が来て終わりになるということにしたとしても、
それでは最後の波長はλ=397.58 nm であり、A=364.45 nm には到達しない。つまり、λ3の存在を無視す
れば、A の値はStoneyの関係から出せるが、λ3を無視する正当性は主張できないので、論文に書くことが
できなかったのではなかろうか。Stoney自身も、彼の関係式に基づく議論をさらに推進しなかったのは、
λ3を含めていないことに、おそらく忸怩たる思いがあったからなのであろう。Stoney の関係式そのもの
も、どうやって出てきたのか、これも不思議である。3つの整数、20、27、32は、どういう根拠で、
それぞれの輝線に対応付けられたであろうか。


[平方数を含む分数を、どうやって捻り出すのか]

 次の謎は、どうやって平方数を含む分数列に到達するかである。

 次のように作業すれば、分数を得ることは可能である。まず、簡単な整数比になると仮定し、40以下の
整数の比で値が1以上になるものを機械的にリストすると、39×40÷2 = 780 通りの分数が出てくる。
根気よく一覧表を作り、実測値から得られる小数の値と比較して、ほぼ一致するものを探し出せば、確か
に、次に示すような分数を得ることは可能である。

   λ1/A = 9/5 = 18/10 = 27/15 = 36/20
   λ2/A = 4/3=8/6=12/9=16/12=20/15=24/18=28/21=32/24=36/27=40/30
   λ3/A = 25/21
   λ4/A = 9/8 = 18/16 = 27/24 = 36/32

 ここまではできたとしても、ここから先どうすればよいのであろうか。また、困難に出会う。ここで、
おそらくヒントになるのは、λ3/A = 25/21 であろう。これだけは、上の作業では、唯一つの分数しかな
い。この分数の分子の25は、平方数で、5の2乗になっている。そこで、分子が平方数になっているも
のだけを取り出せば、

   λ1/A = 9/5 = 36/20
   λ2/A = 4/3 = 16/12 = 36/27
   λ3/A = 25/21
   λ4/A = 9/8 = 36/32

さらに、25/21 において、分子と分母の差が4であることに注目すれば、次の4つの分数に無事たどり着
くことができる。

   λ1/A =  9/5  =  9/(9-4)
   λ2/A = 16/12 = 16/(16-4)
   λ3/A = 25/21 = 25/(25-4)
   λ4/A = 36/32 = 36/(36-4)

 このようにすれば、確かに平方数を分子に含む4つの分数が得られ、どれもみな、分母が(分子-4)
の形になっており、これから、Balmer が得た次の公式が直ちに導かれる。

   λn=A(n+2)2/{(n+2)2 - 4}  (n=1,2,3,4) A=364.46 nm

 以上のようなプロセスを経れば、それほど試行錯誤には陥らずに、なんとか、Balmer と同じ結論にた
どりつくことができるが、随所に「数」についての「センス」の良さを必要とするところがあり、だれで
も必ずできるというわけには、行かないかもしれない。
 なお、Stoney の関係式についても、観測された波長の比を、整数どうしの比の表と根気よく照らしあ
わせるて行くと見つかる可能性がある。λ1、λ2、λ4の3者の比が、
   λ1:λ2=27:20、 λ2:λ4=32:27、 λ4:λ1=20:32
となって、循環していることに気づけば、Stoneyの関係式が得られる。



<バルマーの謎への Koichi OHNO の挑戦(2)>

 1972年に東大教養学部の助手になったときに、学生実験の現代化プロジェクトに加えていただいた。そ
して1973年には、水素原子のスペクトルの測定を、水素放電管を用いて実際に行い、Balmer系列とスペク
トル公式を扱う、新しい実験種目が誕生した。
 教養学部の1-2年生にこの実験種目の指導をどのようにしたらよいかと思案しているうちに、次のや
り方をすれば、天才ならずとも、Balmerの公式にたどり着けることに気がついた。1973年のことである。

 問題は、測定した四本の輝線の波長からλの一般公式を見出すことであり、これは1885年にBalmerが
解いた問題と、まったく同じである。

 四本の輝線の特徴を調べてみると、λ1から始まって、次第に間隔が狭くなっているので、数列 λは、
徐々に間隔を狭めて(単調に)、n→∞で極限値λに収斂(収束)すると考えることができる。問題は、
λを求めることであるが、λをそのまま扱うよりも、測定値の単位に依存しない無次元の量を扱うほ
うが、数式の扱いが単純になる。ここで、無次元の量として、nが大きくなると逆に小さくなる量を考
えてもかまわないが、nの増加とともに増大する量を導入するのが自然であるので、

   λ/(λ-λ) = F(n)

とおき、n→∞ で F(n)→∞ となるnの単調増加関数 F(n) の形を求める。
 ところで、与えられている数値情報は、四本の輝線の波長のみであるから、決めることのできる未知
数の個数は4つまでしか許されない。すでにλが未知数として導入されているので、F(n)の形を決める
ための未知数はあと3つしか使えない。そこで、nの単調増加関数F(n)として、次の2次式を考える。

   F(n)=an2+bn+c

わざわざ、これよりも複雑な式を考える理由は見当たらない。
 ここまでくれば、あとは、4つの波長の数値を次式に代入し、4元の連立方程式を解けばよい。

   λ/(λ-λ) = an2+bn+c

n=1~4に対する4本の式から、右辺のa、b、cを消去すると、λを決めるべき方程式として、
次式が得られる。

   λ/(λ-λ)-λ/(λ-λ) =3{λ/(λ-λ)-λ/(λ-λ)}

これより、λについて次の2次方程式を得る。

   Aλ+2Bλ+C=0
   A=λ-3λ+3λ-λ
   B=λλ-λλ-2λλ+2λλ
   C=λλλ-λλλ+3λλλ-3λλλ

λ~λの値を用いてA、B、Cを定め、2次方程式の根(解)の公式から、次の2根(解)が得られる。

   λ=332.45±32.23 nm 

小さいほうの根はλが単調にはならないので不適。よって、λ=364.68 nm が得られる。この値は、
Balmerが求めた値、364.46 nmにほぼ等しい。これで、Balmerの公式に含まれる限界波長の値を求める
謎が解決した。

 次に、スペクトル公式に相当する数列 F(n)=an2+bn+c を定めよう。

   λ/(λ-λ) = an2+bn+c

に上で求めたλ=364.68 nm を代入し、n=1~4のそれぞれに対し、λの値を使うと、
a,b,cに関する3元の連立方程式が得られ、それぞれの値は、次のように求められる。(下記注参照)

   a=0.255、b=0.989、c=0.0078

これらの値は、aが4の逆数、bが1、cが0に近い。そこでnの2次式をできるだけ簡単にするため、
a=1/4、b=1、c=0とおくと、

   λ/(λ-λ) = n/4+n

これをλについて解くと、次式が導かれる。

   λ=λ(n+2)/{(n+2)-4}  (n=1,2,3,4,・・・)

これはBalmerが1885年に報告した公式にほかならない。よって、バルマーの謎、すなわち、どのように
すれば4本の輝線の波長から合理的にスペクトル公式が導き出せるかという問題に決着がついた。

 おそらくBalmerは、このやり方で彼の公式を得たのではないと思われる。もしもこのやりかたで得た
のだとすると、論文にこのことを書かない理由が見つけにくい。いずれにせよ、実際に Balmer がどの
ようにして解いたかは、依然として、神秘のベールに包まれたままである。Balmer が、論文に解法を記
してくれなかったが故に、この謎をめぐって、サイエンスの謎解きを楽しむことができる。問題の答え
を誰かに教えてもらうより、たとえ困難に遭遇しようとも、自分で謎解きをするプロセスを楽しむこと、
がサイエンスをする至上の醍醐味であり喜びであるといえる。


 「バルマーの謎への Koichi OHNO の挑戦」については、下記の参考書にも記載があります。
  (1)「量子物理化学」大野公一著(東大出版会:1989年2月) p56第1章問56及びその解答p333
  (2)「量子化学」大野公一著(岩波書店:1996年6月) p20(バルマーのスペクトル公式) 

 (注)以上では、実際にバルマーが使用したとされるディシャイナーの測定値を用いたが、このデー
   タには、誤差が含まれている。また、大気中での波長には空気の屈折率について補正し、真空中
   の波長を用いなければならない。真空中でのバルマー系列の波長は、次のようになる。
      λ1 = 656.47 nm
      λ2 = 486.27 nm
      λ3 = 434.17 nm
      λ4 = 410.29 nm
   これらの値を用いると、上の2次方程式から得られる結果は、
      λ=333.00±31.70 nm 
   となり
      λ=364.70 nm 
   と求められる。これから、上の数列を決める定数は次のようになる。
      a=0.24996、b=1.00007、c=0.00008
   こうなれば、ほとんどまぎれなく
      a=1/4、b=1、c=0
   とおくことができ、完璧にバルマーのスペクトル公式にたどりつく。

   測定値が不完全であったとしても、真理を究めることができる英知(叡智)は絶賛に値する。
   やはり、バルマーは偉大である。


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