量 子 化 学  概 要  



  はじめに(抜粋)


 本書は、「量子化学」すなわち「物質科学の量子論的基礎と化学現象への応用」を、効率よく
しかも根底からしっかりと身につけたいという読者のために、化学入門シリ-ズの1冊としてま
とめたものである。本書が対象とする読者は、量子化学を学ぶ関心や必要のある人すべてである
が、あえて大別すると以下のように分類できよう。
  (1) 大学の理工系で、化学もしくは化学を応用する分野を専攻する学生。これには、理学・
   工学のみならず、農学、医学・薬学、環境科学など、物質を扱う学問分野のすべてが含ま
   れるといってよい。
  (2) 大学の理工系で、物理学を種々の物質に応用する分野を専攻する学生。これには、物性
   物理学、応用物理学、宇宙地球科学など、普遍的な理論体系としての物理学を物質現象の
   多様性に応用するすべての分野が含まれる。
  (3) 理工系の第一線で活躍中の社会人で、量子化学をほとんど学ぶ機会がなかったか、学ん
   だことがあるが最近の四半世紀の量子化学の進歩に触れる機会の少なかった読者。
 本書の内容は、筆者がいくつかの大学の理工系で行ってきたそれぞれ半年間の講義(大学1,2
年の「物理化学」、「構造化学」、2,3年の「量子力学概論」、「分子構造論」、3,4年の「原子
・分子物理学」など)の講義録をもとにしている。その中から、量子力学の基礎に関する部分を
第1章から第3章までに、また、量子力学を化学のさまざまな問題に応用するための基礎と基本
的な適用例を第4章から第6章までに、それぞれまとめた。したがって、本書は量子力学の基礎
と化学現象への応用のエッセンスを学ぶための構成を備えている。本書の前半の行程は、数理的
扱いに馴染みの少ない読者には厳しいかもしれないが、ここで足の運びを止めずに粘り強く後半
に踏み込むことができれば、はるかなる眺望と百花僚乱の楽園が待っているであろう。数理に裏
付けられた化学の世界の面白さ楽しさを存分に満喫していただきたい。
 新時代の物質科学の基礎を多方面の読者に提供できるようにするために執筆上留意した事項が
多数ある。本書の特質を示すためにそのいくつかを以下に記す。
 (1)量子化学とはどのようなもので、それを学ぶとどのようなことが分かりどのようなこと
   に応用できるのかの展望を最初に示すことによって、量子化学を学習する目的が鮮明にな
   るように努めた。
 (2)物理学の学習機会が少ない学生にも本書の理解が円滑に進められるようにするために、
   本論に入る前にク-ロン力と波動・振動についてふれた。ク-ロン力の理解なくして原子
   の個性や化学結合を根底から論じることはできない。また、波動・振動の理解なくして波
   動方程式や波動関数の意味するところを十分に把握することは不可能である。
 (3)量子力学の基礎方程式を立てるときに、運動量をそれに対応する演算子で置き換えるが、
   この操作の必然性がわかりにくい。本書では、それがなぜであるかを理解できるように努
   めた。
 (4)元素の周期律については、通常、電子配置を示すのみで各元素の化学的個性の起源の説
   明が不足しがちである。本書では、電子配置とイオン化エネルギ-および電子親和力の周
   期性の関係を、有効核電荷の概念を利用して説明し、また、原子の反応性と不対電子の関
   係および不対電子の数と軌道の混成の関係を明らかにすることによって、各元素の化学的
   個性が生じる仕組みを詳しく解説した。この点に関連して、希ガスの反応性がなぜ低いか、
   また、希ガスでも反応することがあるが、それはどのような理由によるのかなど、化学的
   に極めて重要な問題でありながら十分に論じられていないことがらの説明を詳しく行った。
 (5)化学結合が形成されることの本質は、正の電気を帯びた原子核どうしの間に負の電気を
   帯びた電子が割り込むことによって原子核どうしの斥力を帳消しにする作用が生じるから
   であるが、従来からの標準的化学結合論では、結合力を原子核に作用する力として説明す
   ることはなされていない。化学結合力の本質に関するこのような描像の量子論的根拠は、
   Feynmanの静電定理にある。このことは最近の量子化学においてすでに確立しているが、
   これが教科書に採用されている例は国際的にまだ少ない。本書では、この新しい化学結合
   論が初学者にもよく理解できるように詳しく説明した。
 (6)化学結合の形成や解離が分子中の電子軌道の働きによって展開される仕組みは、いくつ
   かの技法を学ぶと、面白いようによくわかるようになる。本書では、その技法を、初学者
   にもマスタ-できるようにするために、分子軌道の定性的な組立原理の基本と典型的な応
   用例について、ていねいに解説した。
 (7)化学的安定性と反応性が何に支配されているかは、化学でもっとも大切なことであるが、
   よく説明されていないことが多い。本書では、電子配置と反応性の考察を進めることによ
   ってその本質を明らかにし、不対電子があるとなぜ反応しやすいか、また、不対電子がな
   いものでも反応するのはどのような場合で、それはそれぞれの反応物のどのような特徴に
   支配されているかを、HOMO-LUMO相互作用と結び付けて理解できるように努めた。
 (8)コンピュ-タの発展によって、量子化学計算が、専門家でなくても日常的に実施できる
   時代になりつつあることを考慮し、計算結果の実例を示すとともに、量子化学計算プログ
   ラムの利用に有益な基礎知識も身に付くように配慮した。
 (9)内容が物理化学一辺倒にならないように注意し、有機化学や無機化学など、他の分野で
   扱われる事柄とのつながりもよくなるように努めた。
(10)誤解を避け理解を進めるために、数式の省略をなるべく少なくし、また、とくに重要な
   事柄の記述は表現を変えて繰り返し述べるようにこころがけた。
 本書では、とくに化学結合および化学的反応性に関連して、初学者にも理解できる題材の範囲
内で、量子化学の新しい礎となることがらを多数採用している。読者諸氏のご意見をお寄せいた
だければ幸いである。(1996年5月)



  もくじ(概要)

 1 量 子 論 と 波 動 方 程 式
  1.1 量子化学とは
  1.2 物質を構成する荷電粒子とクーロン力
  1.3 波動と振動
  1.4 エネンルギー量子論
  1.5 原子のスペクトルとエネルギー準位
  1.6 粒子性と波動性
  1.7 波動方程式
  1.8 波動関数と粒子の存在確率
  1.9 定常状態と固有方程式
  1.10 1次元の箱の中の粒子
  1.11 波動方程式の一般化
  1.12 2粒子系の運動
  1.13 角運動量
  1.14 測定値と期待値
  1.15 交換関係と不確定性原理
 2 原 子
  2.1 水素様原子
  2.2 原子軌道の形
  2.3 多電子原子
  2.4 電子のスピン
  2.5 原子の電子配置
  2.6 周期性
  2.7 励起原子とスペクトル項
 3 近 似 法 の 基 礎
  3.1 摂動法
  3.2 変分法
  3.3 SCF法
 4 多 電 子 系 の 方 法 論 と そ の 応 用
  4.1 電子の運動と核の運動
  4.2 結合力と電子密度
  4.3 分子軌道法
  4.4 量子化学計算
 5 分 子 軌 道 と 分 子 の 構 造
  5.1 水素分子イオンと水素分子
  5.2 ヒュッケルの分子軌道法
  5.3 軌道の重なりと軌道間相互作用
  5.4 AH型分子とAH2型分子
  5.5 A2型分子
  5.6 軌道の混成
  5.7 3中心結合と水素結合
  5.8 電子エネンルギー準位と光電子スペクトル
 6 分 子 軌 道 と 反 応 性
  6.1 反応性の軌道論
  6.2 化学的安定性と希ガスの反応性
  6.3 環状付加反応と結合の組換え
  6.4 化学反応の選択性と置換基効果


 本書「量子化学」英語版はこちら

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