日本化学会学術賞研究内容  



  学 術 賞[物理化学系部門(基礎および応用)]    大野 公一

 [業績] 原子衝突を利用する分光法の開発と分子表面特性の研究
  Development of Atomic Collision Spectroscopy and Studies on Surface 
  Properties of Molecules

  化学反応や触媒作用、吸着・接着など、化学の分野で重要な現象の多くは、
 物質粒子どうしの接触や衝突に伴って展開されます。このような現象の本質を
 解明し、その自在な制御を微視的なレベルで可能にするためには、物質どうし
 の触れ合いの最前線となる分子表面の特性を明らかにすることが重要です。こ
 の研究では、原子をプロ-ブとして利用することにより、分子の表面の立体化
 学的特性について、その特徴を効果的に観測する新しい実験手法と簡便かつ有
 用な理論解析法を開拓して実験と理論の両面から研究を展開し、新たな概念形
 成を含み広い分野に影響を与える研究成果を収めることができました。
  以下に、その主な内容を紹介します。

 (1)ペニングイオン化電子分光法による分子軌道の立体化学
  福井・Hoffmannらの軌道理論によって分子軌道から化学反応の仕組みが明ら
 かにされるようになりましたが、私は、分子軌道と化学反応の関係は前者から
 後者への一方通行ではなく、逆方向に進める研究も可能であろうと考えて、ペ
 ニングイオン化と呼ばれる原子衝突反応を利用し、実験的に分子軌道の立体特
 性を明らかにする研究を進めました。まず、いくつかの基本的無機分子および
 有機分子について、ペニングイオン化電子スペクトル(PIES)のバンド強度分布
 を正確に測定し、分子軌道の立体電子分布の量子化学計算と比較することによ
 り、ペニングイオン化反応の起こり方に関する基本原理を明らかにしました。
 この基本原理によると、ペニングイオン化過程は、希ガスの励起原子が試料分
 子の表面に衝突する際に、試料の軌道から電子を引き抜く反応であり、原子は
 分子の表面までしか接近できないため、分子表面から外側に広がって分布する
 軌道からは電子が抜き取られやすくPIESのバンド強度は強くなり、逆に分子表
 面から外側への広がりの少ない軌道からは電子が抜き取られにくくPIESのバン
 ド強度が弱くなります。この原理を発見したことによって、ペニングイオン化
 におけるイオン化確率が、窒素、一酸化炭素、二酸化炭素などの無機分子では
 (σ軌道)>(π軌道)であるのに対し、エチレン、ベンゼン等の有機分子で
 は(π軌道)>(σ軌道)となるなどの矛盾の謎が統一的に解決しました。さ
 らに、ペニングイオン化過程を利用して、分子軌道の立体化学的性質について、
 以下に示すような興味深い知見が得られました。例えば、孤立電子対の軌道や
 炭化水素のπ電子の軌道は分子の外側に大きく張り出していて電子抜き取り反
 応を受けやすいこと、官能基の電気的陰性が弱いほど孤立電子対の空間的広が
 りが大きくなること、嵩高い置換基があるとその数や位置に応じて分子軌道へ
 の反応試薬の接近が妨害されること、Through-bond相互作用が働くと結合部分
 に電子が引き込まれThrough-space相互作用が働くと分子の外側の空間に電子
 分布が広がること、分子内水素結合の形成に伴い孤立電子対が試薬の攻撃から
 保護されることなど、分子軌道の立体化学的特性を、衝突イオン化反応素過程
 を利用する実験によって直接的に観測することができました。
 
 (2)衝突速度分解分光法の開発
  (1)の分子軌道の立体化学的特性に関する研究を踏まえて、物質どうしの
 ミクロな触れ合いの場である分子表面の特性を明らかにするために、衝突速度
 分解分光法の開発に着手しました。当初は、既存の技術を用いるとそれまでの
 実験条件と比較して十万分の一の信号強度しか得られず凡そ不可能でしたが、
 励起原子ビ-ム源の強力化や飛行時間型時間相関速度分解法の開発などの工夫
 を重ねて測定効率を飛躍的に改善することができ、速度分解ペニングイオン化
 電子分光を開発しました。この手法によって、ペニングイオン化部分断面積の
 衝突エネルギ-依存性(CEDPICS)と衝突速度分解ペニングイオン化電子スペク
 トル(CERPIES)の2つの新手法が誕生し、分子表面の硬軟・粘着性及び異方性
 を実験的に観測する道が開けました。これらの手法は微視的プロ-ブによって
 分子の表面特性の精緻な情報を獲得する新規な実験手法であり、原子・分子の
 微視的個別的機械操作技法の発展に極めて有用な情報を与えてくれます。さら
 に、反応物の衝突速度と生成物の放出速度の両者に対して反応確率を観測する
 2次元ペニングイオン化電子分光法を開発しましたが、これによって、衝突反
 応素過程のダイナミックスの方向特異性(どの方向からどのような経路で衝突
 すると反応が最も効率よく起こるかなど)に関する実験情報を詳細に獲得する
 ことが可能になりました。

 (3)衝突イオン化反応ダイナミックスの解析
  新しい実験法の開拓に伴って、実験と理論とを照らし合わせる理論的解析法
 を開拓する必要が生まれました。上の(1)で示した分子軌道の立体化学的特
 性の観測実験に対し、分子表面から外に広がって分布する電子密度(EED)の多
 寡と観測結果とを比較する計算手法を開発しました。(2)の衝突速度分解分
 光実験に対しても実験をよく再現するトラジェクトリ-計算法の開発し、衝突
 反応素過程のダイナミクスにおける衝突の速度や方向の効果を詳細に解析する
 道を切り開き、効率的衝突イオン化反応の条件を空間的な衝突経路の詳細に立
 ち入って明らかにすることができました。

 (4)原子プロ-ブによる分子表面特性の解析
  さらに、分子表面の一般的特性を解明するために、量子化学計算によって系
 統的に分子表面を調べ、分子表面の形態がプロ-ブとして用いる原子の種類や
 接触のさせ方によって多様に変化することを見出し、その原因が原子と分子の
 方向特異的相互作用にあることを突き止め、物質どうしの触れ合いの場として
 の分子表面の本質を解明して、「分子表面概念」を構築することができました。

  以上、分子の表面特性を効果的に捉える新らしい研究手法の開発を実験と理
 論の両面から独自の考えと工夫に基づいて推進することができ、化学反応や触
 媒作用、吸着・接着などと関連して重要な物質粒子どうしの接触や衝突のフロ
 ンティアの性質の解明に貢献することができました。



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