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Koichi OHNO の
 サイエンス エッセー 

 

 



事象と数理の関係

(岩波応用数学講座 第14巻月報1995年4月・岩波応用数学講座第2次No.15 月報1998年11月)


 高校まで地方にいた私は受験勉強の範囲外まで学ぶ機会がなかった。大学に入学し
高木貞治著の「解析概論」を手にしてようやく数学の勉強に本腰を入れようとしたの
だが、その矢先に東京育ちの同級生たちが「解析概論」は高校時代に読み終えたとい
うのを耳にして、それまで凝縮させていた私の数学への憧憬の念は一瞬にして蒸発し
てしまった。当時の理科I類のフランス語のクラスには 数学科志望の学生が多かった
のである。彼らの話題は、Smirnov の「高等数学教程」を何巻まで読破したであると
か、Pontryaginの「連続群論」を勉強中であるとかいうものであった。私にはとても
追いつけそうにないと思い、数学方面への進学は断念した。           
 かくして数学に落ちこぼれたが、大学での物理化学の研究と教育を通じ数学とは離
れられずにいる。事象の研究からそれを支配する数理を暴き、新しい数理をもって未
知の事象を予測し実現することが科学の醍醐味のように思っている。当然、応用数学
に依存するところが大きい。以下とりとめもなく考えたことを記し読者諸賢の批判を
仰ぎたい。                                 
                                      
 (1)実験科学では限られた事象から普遍的な法則や一般的な関係式を導き出すこ
とが多い。水素原子の発光スペクトルには、可視部に次の波長の(真空中での波長)
の4本の輝線が観測される。                         
 λ(1)=6564.7 Å                           
 λ(2)=4862.8 Å                           
 λ(3)=4341.7 Å                           
 λ(4)=4102.9 Å                           
スイスのバーゼルで数学を教えていたJ.J.Balmerが1885年にこれらの4つのスペクト
ル線の波長をよく説明する実験式を発見した。有名な話であるが、実験誤差を含む4
つの数値からどのような思考経路でBalmerの公式にたどり着くことができるのか。だ
れしも疑問を抱くところである。史実はその道の専門家にゆずることとし、ここでは
次のように考えてみよう。                          
 まず間隔を調べると単調に減少している。そこで数列λ(n)は単調に減少し λ(∞)
(もちろん λ>0)に収束すると考える。 単なる数式の問題として無次元の量を扱う
ために λ(∞)/{λ(n)−λ(∞)} = F(n) とおき n→∞で F(n)→∞ となる数列 F(n)を
求めよう。4つの数値から一般式を定めるには、たかだか4つの未知数しか許されな
い。すでに1つ λ(∞) を未知の定数として導入したから、あと3つの未知数しか使
えない。  そこでnの2次式を考え、   F(n) = an2+bn+c とおく    
(わざわざ、もっと複雑な式を考える理由は見当たらない)。実験値を用いて4元の
連立方程式から、a=0.250、b=1.000、c=0.000が得られ、これからBalmerが得
たのと同じ公式が導かれる。                          
  λ(n)=3647.0×(n+2)2/{(n+2)2−22}
 以上のように考えると天才ならずとも有名な公式にたどり着く。こう考えるとこう
なるという1つの可能性を提案するに過ぎない論法ではあるが創造的思考活動とはこ
のようなものではなかろうか。                        
                                      
 (2)円周率πには幾何学的意味がある。自然対数の底eにはどんな意味があるのか
次のように考えてみた。                           
 任意の平面図形をn個の同面積の小片に細分し、もとの図形を同じ面積の面上に重
なりを許して乱雑にばらまく。その結果埋め尽くされずに空いた部分の面積は、nが
十分に大きいならばもとの図形の 1/e である。                 
 平面図形上の点が1個の小片で塞がれない確率は(1-1/n)、独立事象だから、n個 
ではそのn 乗、よって塞がれていない部分の割合は、              
            lim (1-1/n)n=e-1                           
            n→∞                                        
これは光を吸収(または散乱)する物質によって透過光の強度が減衰する事象と密接
に関係している。断面積σ の黒体小粒子n個が断面積S=nσの透明セルに入って乱
雑に分布するとき、光の透過率Tは、n→∞ の極限で上と同様に 1/e になる。セル
の長さをL、濃度をc=n/(SL)とし、σcLが有限な値をもつようにするとき、
nが十分に大きいならば、                          
T=(1-σcL/n)n ≒ exp(-σcL)  
透過率Tの逆数の常用対数が吸光度Aであるから、               
          A=εcL                                    
となる。ここでε=(log e)σであり、これは分子吸光係数と呼ばれる。吸光度Aが,
濃度cに比例することを主張するBeerの法則と、セル長(透過距離)Lに比例するこ
とを主張するLambertの法則は、多くの教科書で扱っているが、 この種の説明には出
会ったことがない。                             
                                      
 (3)物質1モルの粒子数がおよそ6×1023であることは誰でも知っている。羊が
1匹、羊が2匹と数える話があるが、原子が1個、原子が2個と、1秒に1個ずつ数
えるとすると、1モル数え終わるまでにかかる時間はおよそ2×1016年にもなる。150
億年前に宇宙が誕生した瞬間から数え始めていたとしても、まだ 100万分の1も数え
終わっていないことになる。これは重大である。最近の実験技術によると原子を1個
ずつ任意の場所に運ぶなどの超微細操作が人類の手で行えるようになってきたが1秒
に1個ずつ操作するようなペースでは、とてもマクロな量はこなせない。ただし、産
業革命以前の手工業と現在の高度に自動化されたマスプロダクションとを比較すると
作業能率は飛躍的に向上したのであるから、原子レベルでのマイクロマスプロダクシ
ョンが発展して、マクロな量の大規模原子操作が可能になるかもしれない。そのとき
には、分子や高分子、錯体、ミセル、コロイドなど種々の階層の物質単位がパーツと
して扱われ、このようなパーツを扱うマイクロロボットが登場することになろう。そ
のような時代が来ないと意味がないかもしれないが、1モルの物質中にたった1個だ
け不純物が紛れ込んでいるとして、それを捜し出すにはどれほどの手間がかかるだろ
うか。1個ずつ試験する方法では最悪で 6×1023ステップもの手数がかかる。ところ
が、まとめて扱っても不純物の存否が判定できるならば(例えば不純物だけが特異な
磁性や発光現象を示す場合には)、分割試験の繰り返しでたかだか 24/log 2 ≒80回
の試験で見つけ出すことができる。                      
                                      
 (4)この原稿をそろそろしめくくろうとしているときに、某出版社から経営事情
の悪化により業務停止することになったので、2年前に訳本として出版したばかりの
「化学数学」は絶版になるという通知が届いた。原著はMathematics in Chemistryと
いうタイトルの本で、本講座のいろいろな分野と関係する内容が盛り込まれていて楽
しく翻訳することができた。また、これをきっかけにして研究にも役立てることがで
きた。それまで単一スリットの分子線チョッパーを使って飛行時間分析を行っていた
が、Hadamard変換に基づく擬似ランダムチョッパーを使用することにより信号検出効
率を2桁あげることができた。また、積算信号のスムージング処理に最適化スプライ
ンを、2次元データの補間には双2次スプラインを使うことになり、研究上の新展開
を図ることができた。物理と化学の境界で微弱信号の検出と大規模計算の遂行の極限
に挑戦しつつ「事象と数理の関係」の探求を続けている。応用数学とはまだ縁が切れ
そうにない。                                

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